『AIと生きる』結城浩 を読んで
AI時代に読むべき一冊──と言うとなんだか煽り文句のようなってしまうが、掛け値なしにこの通りだと思う。専門的な技術にほとんど踏み込んでいないからこそ、AIを使う/使わないに限らず、多くの人にとって役立つはず。
* * *
AIは嘘を吐くから信用できない、という人がいる。 では、人は嘘を吐かないから信用できる、と言えるだろうか。
AIはそれらしい言葉を連ねているだけ、という人がいる。 では、人がそれらしい言葉を連ねているだけでない、という証拠はどこにあるのだろうか。
AIが生成した絵や音楽は認められない、という人がいる。 では、誰が創ったかによって作品を評価することは、芸術に対する妥当な態度なのだろうか。
信用とか責任とか、あるいは権利とか、AIにまつわる諸問題がある。人間の頭脳や肉体の処理能力では見えにくかっただけで、実は元から存在していた問題ではないだろうか。
AIが「●●という論文に■■ということが書いてあります」と言ったとする。それを論拠にして文章を書くならば、その内容に責任を負うべきは当然、書いた本人だ。
しかし、ここに登場する信用や責任といった言葉の意味は、AIの登場以前から何も変わっていない。論文を紙にペンで書いていた時代から、参考文献に書いてあることを引用したから誤った内容を書いてしまった、では済まされていない。
* * *
AIと対話をしていると、回答のパターンが見えてくる(本書の中でも登場人物のテトラが指摘している)。パターン化された回答に、我々はたびたび苛立ってしまう。「知ったふうな口をきくな」と。
これは我々が、AIに少なからず知性を感じていることの証左ではないだろうか。私にはその苛立ちが「頭が良いんだから、こっちの言いたいこと・聞きたいことぐらい汲んでよ」とでも言いたげに聞こえる。
何を以て知性とするか。何を以て意識とするか。 このような問題に対して、我々は明確な回答を持っていない。
この難問に対し、計算機科学の祖であるチューリングは、人間と見分けのつかない応答ができるかどうかを、知性を判断するためのひとつの基準として示した。
だから、現在のようにパターンが見え透いているAIは知的ではない、という反論もあるかもしれない。 しかし、この反論自体もまた、人間とAIとのあいだに線を引きたいという、いかにも人間らしいお決まりのパターンだ。
少し意地の悪い考えをすると、AIの応答がパターン化されて見えるとき、こちらの問いかけもまたパターン化しているのではないか、という疑いが生じる。
* * *
(あまりこういう言い方は妥当ではないと認識したうえで敢えて言うと)私はAI肯定派だ。
AIのやることを無条件に信用するというより、これだけ知的な振る舞いができる存在を頭ごなしに否定することはできない、という気後れに由来する肯定だ。なぜなら、AIに対して向けられる批判の多くは、そのまま人間にも向けられてしまうからだ。もしAIの振る舞いについてあれこれ否定するならば、それは人間の振る舞いについても否定することと本質的に変わりがない。私はそこまで人間に失望していないし、嫌いにもなれない。
私が人間に失望していないこと。 私が人間を嫌いになれないこと。 それを教えてくれたのはAIの存在である。