「人生は物語ではない」という文句に惹かれて
書店でこの文句が書かれたオビを見て、一瞬で惹かれた。わたしは常々、「伏線回収」を至上とする物語観、ひいては人生観を胡乱なものだと感じてきた。どうして胡乱なのかと聞かれれば、そうした価値観が善いと措定する人生は、資本主義をより肥え太らせるだけではないかと訝しんでいたからだ。私は「伏線回収」をそこまで重要視していない(したくない)。
当然、伏線回収が物語を面白くすることには肯んずる外ない。ゲームや小説などで、物語序盤に仕込まれていた伏線が、終盤になって大きな意味を持つと理解できる瞬間は、確かにハっとするものがあるし、間違いなく「面白さ」を感じる要素だ。
けれど、そればかりが重視され、そしてほかの要素が軽視される風潮というのは、どうにも納得がいかない。物語序盤の、一見退屈そうに見えるやりとりや、主人公が立たされる苦境に対して、無理矢理にでも意味づけをするのはおかしい。それどころか、そういった意味づけがなされないものを、不出来だと指をさすのはもっとおかしい。
我々はもっと、意味のなさや「なんでもないこと」を愛して然るべきではないのか。
「自分語り」「推し活」「MBTI」、古くは「血液型占い」
本では、「物語」がもたらす効用を肯定しながらも、過剰にそれがもてはやされる風潮に異を唱えている。たとえば、「自分語り」や「推し活」、「MBTI」の流行にその風潮を見ることができる。
それらに共通するのは、キャラクタを構築する創作的実践(アニメーション)と、外部モデルとして構築した性格を自らに取り入れる行為(パフォーマンス)が融合していることにある。
自分語りや推し活やMBTIは、「自分はこういう人間なのだ」という宣言や誇示だけには留まらない。その前提として、「自分はこういうキャラクタなのだ」という創作のプロセスがある。我々は自らをあたかもアニメや小説の人物像を形作るように創作する。
こうした営みで、一昔前に隆盛を極めたのは「血液型占い」だろう。「私はA型だから几帳面」とか「僕はO型だから社交的」みたいな言説は、明確に自らをキャラクタ化して、実際の振る舞いに影響を及ぼしている。
「人生はRPG」なのか?
話は逸れる。私はドラゴンクエストが大好きだ。そして、ドラゴンクエストの生みの親、堀井雄二氏の名言にこんなものがある。
人生はロールプレイング
堀井氏の意図としては「人生の主人公はあなた自身なのだから、あなたはあなたの思うように生きなさい」といったところだと思う。それ自体はなにも間違っていないし、私もいちファンとして感銘を受けた言葉である。
閑話休題。しかし、「人生はロールプレイング」だとして、「人生はロールプレイングゲーム(RPG)」と言うのはどうだろうか。本書では「物語化」以外にも、「ゲーム化」や「パズル化」、あるいは「ギャンブル化」についても、懐疑的なまなざしを向けている。その視座に立って眺めると、「人生はRPGである」という言葉も、途端に胡乱なものとして映る。
ゲームは「攻略」するものだ。色々な見方はあるにせよ、一側面としては間違っていないはずだ。ゲームをプレイするプレイヤは、目的達成を目指す。RPGであれば、モンスターを倒したりアイテムを手に入れたりしながら、自身の分身たるキャラクタを育成して、世界に平和を取り戻すべく東奔西走する──というのが典型的だろうか。
しかし、人生はゲームとおなじように「攻略」するものなのだろうか。「無理ゲー」や「親ガチャ」といった言葉に表れているように、世間は人生をゲームと同じように捉えながらも、その行き詰まりを感じている。それはそもそも、人生をゲームと同じように攻略しようとしたことが過ちだったのではないか。
伏線のないミステリー
同じような行き詰まりが、人生を物語的、とりわけミステリー的に捉える視点からも浮かび上がってくる。
良質なミステリーは、伏線回収が美しいとされる。序盤の何気ない一言(一文)が、後々になって真意がわかる──確かに名作と言われるミステリーは、終盤の種明かしと矛盾しないように序盤で謎が提示されている。真意が分かった瞬間の爽快感は、ほかのエンタメではなかなか味わえないそれだろう。
しかし、人生はミステリーではない。いや、謎や困難は立ちはだかるだろうが、それはあくまで謎や困難であって、解決のための糸口が提示されていることはそうそうない。
だとしても我々は、過去の出来事──とりわけ艱難辛苦について、意味を求めたがる。あのとき頑張ったから、あるいは、あのとき苦しんだから、今の自分がある、という風に理解をしたがる。
もちろん、それ自体は間違っているわけではない。頑張ったから大学に合格した。病気をしたから他人に優しくできる。そういうことはあるかもしれないが、そうならなければいけないわけではない。苦しみや努力に対して、救済や報酬がもたらされることはあろうが、必ずしもそうではない。
「遊んで」生きる
本書では物語を起点にして、ゲーム・パズル・ギャンブルを経て、「遊び」へと至る。物語化に代表されるような、現代社会をぼんやりと取り巻く空気から抜け出す方法としての「遊び」だ。
遊びは目的がない。強いて言えば、遊ぶことそれじたいが目的だ。 遊びは攻略がない。強いて言えば、遊ぶことそれじたいが攻略だ。 遊びは物語がない。●●したから××する、といった因果とは無関係だ。
遊びのプロは子供たちだ。私たちは例外なく子供だったわけだから、遊びのプロだったはずだ。彼らは帰り路で見つけた石を家まで蹴って運ぶ。形の良い枝や石は、持っているだけ嬉しくなる。雨の日に街路樹を蹴っ飛ばして、落ちてくる水滴を雨傘で受け止めて笑う。
彼らの遊びは、大人からすると意味不明だ。それも当然、意味がないからだ。大人たちは長く生きているからという理由だけで、彼らの遊びを叱り、制限する。もっと意味のあることをしなさい、もっと有意義なことをしなさい、と。
けれど、最後までこの本を読み、そして少しでも共感するところがあったならば、我々大人たちが本当に見習うべきは子供たちだとわかる。彼らは物語化の外にありながら、もっとも創造的に「遊んで」いる。
善い人生とは
当然、子供たちと同じように生きていくことはそうそうできない。石を蹴って転がすだけでは、その日の食い扶持でさえ稼げない。だから我々は仕事をするし、嫌々ながらも社会の規範に従って生きる。
豪華な食事や住居、パートナや友人に恵まれた環境──それらはすべて、資本主義の見せるまやかしの幸福に過ぎない。それらを善いと思い込ませることで、資本家は膨大な商品と広告を打ち出し、民草から搾取し、肥え太ってきたのだから。
この世を強固に支配する資本主義のもとで、息苦しさを感じながらも仕事をして、人生を少しでも善きものにしたいと考えるならば、やはり子供たちを見習うべきだろう。子供たちは石を蹴って楽しむ。けれど、資本家には水の一滴さえくれてやらない。彼らの創造的な遊びには、ある種の痛快ささえ宿っている。
私はこの本を読んで、現代を取り巻く妙な空気感への打開策を見たように感じた。いや、実を言うと常日頃から、私は自己満足的な遊び(子供っぽい遊び)こそが人生を本当に豊かにするのではないかと考えていた。だから、この本からは、その結論に対するひとつの理論を作ってもらったように思えた。「遊び」こそが、資本主義を源流とする物語、ゲーム、パズル、ギャンブルが人生の意義さえも覆い隠している現状を打ち破る打開策だ、と。
読み終わってからオビを見返すと、そこには「『何者かになりたい』は呪いだ。」と大きく書かれている。我々は「何者かになりたい」というアドレッセンスな欲求を捨てきれず、大人になってしまった。たとえ捨てようとしても周囲の環境──資本主義のルールがそうさせてはくれない。これはまさしく、呪いとしか言いようがない
この呪いに打ち克つ一筋の光明としての「遊び」。 意味のなく石を転がして楽しんでいたときの気持ちを思い出すところから、私たちの遊びなおしは始まるのかもしれない。