夏コミに申し込んだはいいものの
文章を書く気がまったく起きない。だからAI絵と小説のコンビネーションにしようとおもったのに、それもやる気がしなくなってしまった。どうしよう。時間はあるとはいえ、4ヶ月もすれば締め切りだ。さっさと着手せねば、あとで泣くことになる。
下手であることを受け容れよ、と何度も言い聞かせてきた。けれど、そう簡単に受け容れられるものではない。だから世の中のクリエイタは苦労しているのだ。では、どうすればいいか。一旦休むことも大切だとおもう。けれど、やっぱり書くしか救われる道はないように思う。救済を求めて書くだなんて、いかにも卑しいが、卑しさも受け容れねばならないのだろう。
心のどこかで、AI絵をつくることに負い目を感じている実感もある。確かにある。これは言い訳しようがない。理屈では是としているが、世間の風当たりの強さに顔を覆いたくなる気持ちも、まったくないと言ったら嘘になる。軟弱だとおもう。軟弱さも受け容れねばならない。とっくにキャパシティ・オーバである。
兎にも角にも、書くしかない
救済を求めて書くのは卑しいと書いた。しかし、考えてみれば、救済を感じるのも、また救われていないと感じるのも、書いていないときだ。書いているときは、そんな俗世的なことは無関係に、ただテキストエディタに向き合って、必死にことばをこねくり回すだけだ。
これはある意味で、運動に似ている。 むかし、鬱が本当に酷くて、希死念慮に苛まれていたときは、無意味に外を駆け回った。何も考えたくなかったからだ。とにかく脚を動かして、必死に呼吸をすれば、余計なことは考えられなくなる。深夜だったから完全に不審者だったけど、家の鍵しか持っていなかったから、警察に捕まったところで何もできないと放免されたかもしれない。
だから、考えないために書くのかもしれない。書く最中は明らかに思考しているけど、それは堂々巡りの無為無益な思考ではない。そもそも無為無益な堂々巡りは思考と呼ばない。かさぶたを弄くったり、目を掻いたりするような、反射的なものだとおもう。ああ、目が痒い……。
そうと決めたら
やっぱり心がいくらか軽くなった。AIだとか人力だとか、やっぱり些末なことだ。自分は文章を書いているときの自分を肯定できる。であれば、存分に肯定してやろうではないか。自分で自分を褒めるだなんてうぬぼれだと指をさされるかもしれないが、それは至上のよろこびに対するひがみでしかない。自己満足ができるなら、人生はほとんど無敵だ(とうぜん、無闇矢鱈に敵を作るような放埒さは論外だけれど)。
夏コミに向けて、3 ~ 40,000文字ぐらいの短編を書こう。キャラクタも決めた。過去に書いたことのあるキャラクタだから、まずは過去作を読み返してキャラクタ像を掴み直すことからはじめよう。そうしたらあらすじを考えて、プロットを作って、書きたいところ・書けるところから肉付けしていく。なんて余裕なんだ。これから暖かくなるだろうし、早起きにも優しくなる。やる気さえ出してしまえば、あとはやるだけ。やります。