作業をしながら、安コーヒーをカップにそそぐ。手元が狂って、コーヒーがこぼれる。ガスコンロの下の収納スペースに仕舞っていたキッチンタオルを1枚千切って、カップの側面を撫で、底面を擦る。

コーヒーを飲みながら、拭いきれなかったコーヒーがカップの側面で染みをつくっていることに気づく。この染みは、雑貨店の陳列棚では決して作り得なかったものであり、私がこのカップを所有していることの証である。生活の跡と言うべき染みを目の当たりにし、そんな感慨が浮かぶ。


読まない時代

ゲーム……というよりRPGのシナリオをskipするプレイヤーが居ることに驚いた、という旨のツイートが回ってきた。個人的にはまったく驚きはない。

意図はわかる。せっかくならば物語は味わうべきだ。しかし、味わうに値しない──この場合は「ただでさえ少ない可処分時間を賭してまで」という前置詞がつくだろうか──物語が多いことも、また事実だとおもう。だからおれはskipをする。

ホヨバース系列のゲーム──とくに『崩壊:スターレイル』をプレイしていると感じる。「このストーリーを楽しめている人が居るのか……」と、斜め読み、ときどきskipをしながら毎度おどろく。決してシナリオの質が悪いわけではない。演出も、基本無料の枠を取り去ったとしても一級品だ。

オタクとしての強度が落ちたから、と言われてしまえばそれまでだが、ただただ、疲れてしまう。どうして、疲れてしまうのだろう。単純に文字の多寡(文量)によるものではないとおもう。仮に多寡によるのであれば、小説など読めないはずだ。文学は未だ、正解と不正解の〝あわい〟を漂うちからを残しているようにおもう。

そして、「正解」を求める時代へ

いつからか、世間は「間違っている」ことを過剰に恐れるようになった。キャラクターは「推す」必要があって、シナリオの伏線は「回収する」必要がある。ユーザーは推す行為を強迫され、語られぬ行間を考察させられる。そこに間違いを許容する穏やかさはない。アップデート毎に追加される基本無料ゲームのシナリオは、いわば運営から提示される「設問のないテスト」だ。

だから、アップデートのたびに追加されるシナリオが重く感じる。誰だって試験は好きでないはずだったのに、だ。適切な育成と編成と戦略とでバトルを切り抜けた先にあるのは、キャラクターを推す(推させる)ための演出とマルバツを突きつけられる伏線の回収だ。

「このキャラクターは気に入ったかな?」 「このシナリオの裏に隠された設定に気付けたかな?」

緩やかな試験の体(テイ)をしたストーリーには、必ず落伍者が出る。

SNSと運営型が壊した旧来のゲーム体験

いささか露悪的かもしれない。けれど、実際に令和のゲーム体験は、もはや平成のそれから明らかに変容している。とっくに旧来の体験は破壊されていて、今は新しい体験が構築されている。正解(と不正解)をゲームから突きつけられ、SNSで合格者が戯れ、落伍者がネガティブキャンペーンに走る。

ストーリーをskipすることは、そんな運営から提示される数々の試験(のひとつ)から逃亡する手段だと思えてくる。skipすれば演出もシナリオも見ないで済む。キャラクターの命を賭した乾坤一擲も、目を瞠る壮大な演出も、すべてなかったことになる。

それでもゲームをやめられない。SNSもやめられない。それを意志薄弱だと誹ることができる人間は、果たしてどれほどいるだろうか。「推し」と「考察」を強要されながらも、そこから抜け出せずに藻掻く人間のささやかな反抗、そのひとつが、ストーリーのskipなのかもしれない。