やりたかったことが、やれなくなる

最初は確かに、やりたかった

2020年の秋頃、ふとしたはずみで小説を書きはじめた。最初の作品は2週間で書き上げた。あのときは確かに「やりたい」と心の底から願っていた。いま振り返ってもそうだったと確信している。

書いた、という自負

一時的に筆が執れなくなることはあった。それでも5年近く続けた。下手なりにも、曲がりなりにも、「書けた」「書いた」という自負が生まれた。趣味が同人活動であることも、同じような趣味を持っていそうな人のまえでは、憚らずに言えるようになった。

書けない、じゃない。やりたくないんだ

今ではすっかり書けなくなった。何かアイディアが浮かんで、膨らませようとする。そこで手が止まる。そうして気づく。自分は「書けない」のではなく「やりたくない」のではないか、と。

仕事をしているのかもしれない

仕事(サラリーマン稼業)をしている自分が、けっこう好きだ。嫌になる仕事はごまんとあったけれど、一生懸命になっている自分のことは、仕事の内容が嫌いでも、好きになれた。 同じように、小説を書いているときの自分が、とても好きだった。こちらについては、誇らしかった、と言ってもいいかもしれない。書いていた内容は胸を張れるものではなかったけれど、書いていることには胸を張れた。

でも、お金はもらえない

同人活動で利益を出すべからず、という考えを貫いてきた。それは倫理的な理由からでもあったし、なにより金が動機になって活動を駆動することに、本能的な忌避感があった。だから、つくった同人誌は印刷費以下の値付けにしたし、ファン向けの有料プランなども開設しなかった。

強い衝動

金を稼ぐためであれば、人間は意地汚くなれる。そういった「汚さ」を嫌って、「清廉」を気どって活動を続けてきた。けれど、金を取り去って清廉に生きていると、はじめたばかりの初々しい情熱が冷めた途端に、自分を原稿(テキストエディタ)へと向かわせる強い衝動が何もないことに気づく。

やりたいわけじゃない?

衝動がないのであれば、書く方向をプラスとすれば、それがゼロになっているだけのように思える。けれど最初に書いた通り、いま、私は間違いなく「やりたくない」。つまりマイナスの方向にある。「やりたいわけじゃない」ではない。「やりたくない」。

清くあれという自縄自縛

金を貰わないことが清廉だと書いた。では、清廉のために書くことは清廉なのか。 書いている自分が好きだと言った。では、自分を好きになるために書く自分を好きだと言えるのか。

目的のための手段は、簡単に反転する

清廉のために書くことは清廉ではない。だから、清廉であるためには「書いてはいけない」。 自分を好きになるために書く自分を好きになれない。だから、自分を好きでいるためには「書いてはいけない」。

生きる意味を探しているのかもしれない

死にたがる人間は、普通ではない。希死念慮に苛まれる病気はあるけれど、健常であればそうはならない(そうならないことが健常とも言える)。生きる理由はどこにもなくて、だからこそ自分で理由をつくってよいのだ。そう言ったのは誰だっただろうか。反証可能性に乏しい真理だとおもう。

論理も理屈も、理性も理由も

理《ことわり》というのは所詮その程度だ。客観的に見て明らかな論理や理屈は、あくまで客観的にとどまる。政治や社会における決め事では大切な客観性だが、殊、自分のみを説得するのであれば、客観性は無用の長物に過ぎない。

理を越えて

こうしてあれこれと考えることが、理にとらわれていることの証左なのだろう。そうした理を越えて、しかし矩を踰えず、自在に物事を考えたい。この「考えたい」も、つまりは理由によるものだから、それさえも意識してはいけない。まるで禅問答ではないか……。

汚さを受け容れる、醜さを受け容れる

創作における重要なステップのひとつとして、「下手であることを受け容れる」というものがある。これは、成果物(創作物)の巧拙に限らず言えるのかもしれない。 清廉のために書く自分の汚さを受け容れる。 自分を好きになるために書く自分の醜さを受け容れる。

不浄を許さない世の中

インターネットが普及して、SNSが台頭したこの十数年で、世の中の「不浄許容度」は地に堕ちたとおもう。日々、どこかで、誰かが、炎上している。そうした不浄を許さない態度は、否が応でも染み付いてしまう。「お天道様に顔向けできるように生きなさい」と教わってきたけれど、お天道様とは決して世間の目ではない。もっと自分の内側にある、(宗教的価値観を無視して言えば)神様に従うことなのだとおもう。

ゆるすことからはじめよ

汝隣人を愛せよ、とは言うが、それはつまり、自分を愛することと繋がっている。これもまた理屈だけれど、同じように考えれば、隣人(他人)をゆるすことから、自分をゆるすことがはじまるのかもしれない。生きていれば不条理も不合理もたくさん出会うけれど、青筋立てて向き合うのではなく、赦免をあたえることから、「自由」がはじまるのかもしれない。